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このページtop ネット公開2009年で15年目=漆ネット=
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■■■ 漆芸に関するコラム ■■■
「海外の漆芸の評価」
「加賀藩前田家の遺産」 「つくり手のこだわり」 「光悦を探る」
「縄文の漆器」 「日本文化が育てた蒔絵」
★「蒔絵など漆芸技術と漆器 」 (12月13日 記)
私は業界の人達や語るべき人達が、声を出そうとしないので述べたいと思います。
日本では、蒔絵などの漆芸装飾技術は、漆器に付随した技術と思われがちです。ましてや生活スタイルの変化から漆器の需要が低 迷をしている中で、“普段使いの漆器”の提唱が、産地やメディアから盛んに聞こえる様になりました。それはそれで十分納得が
いく話で、漆の関係するものとしては、使われてこそ漆器の良さが伝わるので、応援したいと思います。
けれども、ただでさえ漆の定義が曖昧で、漆風に仕立てた樹脂製品まで伝統工芸品となる業界ですし、情報を伝えるマスメディア も大変です。けれどもどうしても知っておいて頂きたいことがあります。「ふだん使いの漆」が注目される中で「漆芸装飾技術」
の影が薄らいでいる事です。
それは、前にも書きましたが、蒔絵などやその他の漆芸技術は、漆器とは独立した存在であるという事が、意外と認識されていな い事もあるのでしょう。それは近年商品開発などで言われ始まる事ではなく、古来からそうだったのです。「漆器の定義」に関わ
る事でもあると思いますが、漆芸を装飾技術とすれば決してそれは漆器のみに使われた技術ではなく、意外と漆器とは云い難い品 に漆芸装飾は使われました。
皆さんはご存知のように、漆や蒔絵の権威者松田権六が漆芸技術や蒔絵などの仕事の発揮する場として色々考えていて、中でも蒔 絵万年筆の商品開発に尽力した事は、有名な話です。
そこでは、素地が天然木でなくてはならない、天然素材が必須でそれが伝統工芸技術だと、論ずる人達の概念は如何なものか。古 来から、日本の工芸はアクティブで新しい素材や技術に関しては積極的に挑んだ歴史が、漆芸の工史には残っています。
長年の修練による、極めた塗技術や蒔絵等、漆芸技術はいかなるものであるかと言う事を把握して、日本の漆を語るべきではなかと 思います。また、ふだん使いの漆器と、“漆芸”をむやみにつなげて考えると、視野が狭くなったり、判断を間違えるという事で
す。ただ誤解がないように重ねて云わなくてはならない事ですが、決して私は「ふだん使いの漆器」をとやかく言うのではありま せん。漆器は前にも述べたように使われてこそ漆で、蒔絵師ながら漆器(無地)使う楽しみを皆さんに提唱している者である事を
、前置きしながら話を続けます。
昔から云われていますが、「民芸」と「工芸」の関係を色々取りざたされたり、その事は宗悦 以降いまだに論じられています。そこ で問題になるのは、「使われるもの」と、「美術品や工芸品」と比較される中で、「技術や職人の技」が宙に浮いてしまっている
事です。特に日本の宝と言われる漆芸技術は、そのルーツを中国やアジアと言う方もいますが、漆芸は日本固有の技術です。しか も何千年にも渡り、文化的要素も加わり総合的に熟成された工芸技術なのです。その技術が、今“伝統”という曖昧な定義による
“冠”が氾濫する中で、海外からも注目される装飾技術でありながら、その存在が危うくなってしまっているのです。
また、こんな事もあります。 技術や職人は、求められる場が存在しなければ、絶えるものです。 ただ時代の変化や、代わりになる技術の開発や、より優れた物が取って代わる事は、常にあることですが、需要のエリアを限った
為に、可能性をもたらす出会いを失う事を危惧しています。この事は繋ぎ手にも影響するのではないでしょうか。専門知識や評価 力やキャリアによりますが、技術に対する誤った評価が下されてしまうと、世に出る機会や可能性も絶たれる事もあるのです。も
ちろんベストなコラボの可能性も低くなります。
私達は、新たにJAPAN DECO プロジェクトという事業展開で、極めた技術の発掘と、漆芸技術を新たな分野に向けての、技術開発と応用による事業展開をはじめました。海外に向けての展開もその一環での考えです。非力な職人達の連携での試みでありますが、今後も「漆ネット」ホームページにより、経過も含めお伝え出来るかと思います。またみなさまからの参考になるご意見ご支援など頂けましたら幸いです。
またこのような文才の無い未熟に書き連ねたものをお読み頂けた事感謝いたします。
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「海外の漆芸の評価」 (7月30日 記)
パリで開催される国際見本市メゾン&オブジェに5年連続して出展してきました。
そこでは色々な出会いがありました。1千万円を超える高級ペンを主として販売しているお店のオーナーご夫妻、自家用ジェット機や高級クルーザーの内装を手がけているデザイン会社のオーナーご夫妻、スペインの装飾剣の製造販売されている方、ワイン会社・・・
その前にお話しておかねばならない事ですが、私のブースはメゾン&オブジェでも唯一と言っていいほど変わった展示手法をとっていました。商品ではなく、日本の漆芸装飾技術を紹介することに重点をおいた展示です。従来蒔絵などの装飾が目立つ漆器商品は、アンティークなものとして目に映ると想像していたから、その弊害を避けたいと考えていました。職人である私の工房の製作工程の映像と共に、わずかな作品と装飾プランのサンプルの紹介をする事に重点を置いた展示です。華やかなメイン会場から外れた
会場隅にある私のブースでしたが、アシスタントや支援者の皆さんの、私のこころざしをうけとめてのこころのこもった応援により、賑わいをもたらしました。
そんなブースを訪ねてくれた人達は、先にも書いたように日本ではなかなか出会えない方々だったのです。その皆さんの漆芸装飾技術に対する評価は、高度な技術、海外には無い日本独特の装飾技術、応用性が高い事などで、想定以上の反応を得たのです。
この事は、最終商品として展示したのではなく、漆芸を装飾技術として紹介しそのサンプルを見てもらう事が、功を奏したように思う。それによって、緻密で繊細な蒔絵を美術館などで見る鑑賞作品としてではなく、応用性のある装飾技術と見てもらえたのです。その点でも海外の「
眼 」は日本とは違う事が判った。
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「加賀藩前田家の遺産」 「百工比照」など (4月28日 記)
百万石の文化は、加賀藩の財力によって絢爛と花開きました。大藩かつ外様で あった加賀藩には絶えず幕府の目が光り、その追及をかわす生き残り策として、歴代藩主は文化政策を講じたといわれています。3代藩主利常は「加賀藩細工所」を造って蒔絵や漆工をはじめとして工芸の育成に努めました。
加賀藩の五代目藩主だった前田綱紀(まえだつなのり)は、さまざまな工芸分野の技術や技法を取入れ向上させるためにも、全国から工芸技術の標本を集め、それを整理分類し工芸参考資料の集大成
「百工比照(ひゃっこうひしょう)」をまとめました。 また多くの名工も招いて、積極的に文化振興に勤めました。加賀藩における伝統工芸は、現代の北陸の工芸の礎となったのです。
細工所は、もともと武具の補修工場でしたが、利常は武具だけではなく、同時に工芸 品の製作も行うようになり、5代綱紀のときには工芸製作工場として整備されました。
内容は蒔絵、漆、紙、金具、絵、針、具足、薫物(たきもの)、小刀、象眼、研物、 鉄砲金具、鞍、竹、束帯装束着、轡(くつわ)、御能作物などがあったと云われています。
加賀藩は利家以来、代々茶の湯を大切にしていました。特に利常と綱紀の時代には、千宗室をはじめ有名な茶人を抱えて茶道を奨励したので、一般武士の間でも茶道
が流行し、家臣の武家屋敷にも茶室が設けられました。当時は、茶の湯の道具である床 飾りの軸物、花生、茶碗、釜などの名品、逸品を集めることが、大名のたしなみとな
っていました。武家社会と交流があった金沢の商人、職人などの町人たちも、武家相手に商売することもあり、茶、能、俳諧、謡曲、小唄などを、教養としてたしなむ事が大切とされ盛んになったのです。
この様に、加賀藩前田家は、工芸だけではなく文化面でも、北陸に大きな遺産を残してくれました。
現代に生きる私達も、先達が残してくれた優れた“もの”に学び、古典に憧れ、日本の文化にふれる機会を持つ事を、大切にしたいものです。
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「つくり手のこだわり」
大量生産大量消費時代には、新しいモノをつぎからつぎへと生み出し、それにより国民の購買欲をかき立て、GDPを高めたのも確かでしょう。またテクノロジーの発達に繋がりもしましたし、ある一面で生活も豊かになったかもしれませんが、弊害が生まれたのも確かです。
私達一人ひとりが何を求めているのか、どの様なライフスタイル持ちたいのか、主体性を持つことの大切さを見出せないまま、走り過ぎてきたのではないでしょうか。
「限りある資産を最大限有効に使う事」この事は、本来日本では人の手技が高くつくからと、機械化や省力化に取り組む中、ものづくりの現場で、こだわりを貫き通すことが困難になっています。
ものづくりには、それなりに作り手のこだわりが入っているものです。ハイテクの分野でも、研究開発の現場は研究者の職人的五感を活かした技や視点から、成されるものでしょう。使い手の立場になり開発しているはずです。もしその読みがはずれたり、研究者や開発者の独り善がりで、そこに理念や哲学がない物は、後世には残らず、忘れ去られることでしょう。
伝統工芸のものづくりの現場でも、作り手の意匠も含めた多くのこだわりがあります。ものを大事にしたり愛着が持てる為にも、つくり手のこだわりを知ることも大切だと思うのですが、販売や流通の現場ではどうでしょうか、作り手の顔がわかる”かたち”で使い手に
渡っているのでしょうか。つくり手の一人として、とても気になる事です。作り手のこだわりが伝わることで、よりその物に対しての愛着が持てるはず
だと思います。そんな制作者のこだわりを添えて手渡る事により、それに関わった人達のしあわせにつながると思うのです、そこには作った人のつくり甲斐、仲立ちをした人求めた人の満足感が生まれることでしょう。
そんな心の通った“もの”は心に癒をあたえ、またそのもの自体にいのちが息吹くでしょう。
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「縄文時代の漆器」
近年の遺跡の発掘で、古代史を塗り替えるような発見が報じられています。 特に縄文期が、以前考えられていた以上に時代をさかのぼるのと、文化程度
が高く建築物や出土物等に関心が寄せられています。その中でも興味がひか れるのは、日本最古といわれる約六千年前の出土漆器「赤漆塗櫛(くし)」です。
それは石川県の三引(みびき)遺跡の発掘による物で、その時代に漆がと云う よりも、その漆塗りの技術が注目されます。 漆器文化財科学研究所の四柳先生の研究分析によると、その櫛には4層の漆
塗りの形跡があり、下層は弁柄漆で塗り、貴重な朱漆は上層部だけに塗ってあり しかも、層の中には研ぎ面のあとが見られたとの事でした。 縄文前期の人たちは、すでに色漆の調合・研ぎを含めた塗りの技術を持っていて、
櫛や耳飾・腕輪などの装身具、鉢や皿などの容器、祭事の道具などを盛んに作っ ていた事が、わかってきたのです。 日本では、こんな昔から漆の魅力を感じまた大切にして来たのだと思うと、あら
ためて”うるしの普遍性”に驚かされます。
「日本文化が育てた蒔絵とその行く末を憂う」
海外では、陶器はチャイナ、は漆器はジャパンと称された時代があります。 近世・近代と云われる時代、中国製の陶磁器がヨーロッパによく輸出され磁器の
国として、ヨーロッパでは磁器をチャイナと称しました。 これと同様に漆器(特に蒔絵が施されたもの)が宣教師らによりヨーロッパに紹介 されて以来、蒔絵の魅力が伝わって、日本から多く輸出されるようになり漆器の国として、漆器をジャパン
といわれるようになったのです。 なかでも蒔絵は、日本文化が育てた工芸だと思います。日本の伝統工芸は、染織・金工・木工・陶磁など沢山あるが、日本的な工芸意匠の粋を示す物は蒔絵と
いっても過言ではないでしょう。 漆器に本格的な蒔絵がほどこされるようになったのは、奈良時代頃からです。 経典を入れる箱や大名の婚礼道具・晴れの儀式に用いられる生活諸道具・文具
・茶道具・印籠・女性の櫛こうがい等、その時代ごとに意匠のはやりや文化を表し、日本人のあこがれの工芸であったはずです。
そんな蒔絵が、高価で日常生活から離れ、特別な物とされようとしています。しかも産地では、蒔絵を施した漆器は厄介者扱いされ、このままいくと、後継者すらなくなり、蒔絵の高度な技術継承は、終わるのかもしれません。
以前、灰野先生が著書で書かれているような、「蒔絵の歴史は終わった」 と云う言葉に、抵抗があったのですが、この頃の産地の状況を考えると、大きなうねりに飲み込まれ痛ましく感じています。
漆芸のわざを見出す数寄者が、その時代の工人を育て、歴史に残る逸品が生まれてきたのですが、今の時代は、かっての数寄者や、文化を育てた経済人はいずこにいるのでしょうか?
今では、替りに国や産地がある県などの自治体が補助金を出し、守ろうとしていますが、どうも的外れの支援体制は、国の経済対策の縮図を見ているように、思えてなりません。何を守らなければならないのか、官的な視点ではなく、産地の現状を真に見抜き、対策をとらねば、「歴史は終わった」と云われた言葉が、現実のものとなる事は必至です。松田権六先生は、さぞかし嘆いているでしょう。
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番組担当者から、作り手から見た光悦像は どうであるか等、など伺いたいとお話があり、蒔絵師として感じる事や、また作品から探り出せる事を、お伝えしました。以下は投稿の抜粋です。
( 番組制作の方々の努力が感じられる取材でした)
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「光悦を探る」 NHK「新日曜美術館」で取材を受けた投稿の抜粋
―光悦は漆芸の歴史に何を投じたか―
蒔絵を技法などから見ると、室町期頃までにほぼ完成されたと思います。 その頃までは、寺社や公家や武家からの注文を受け制作された蒔絵は、当然その時代に反映され、公家文化や宗教の影響を受け蒔絵芸術が生み出されたのでしょう。けれどそれも、桃山期頃からは大きく変化を見せます。城郭・寺院の室内装飾から生み出されたと云われる、高台寺蒔絵の誕生です。この高台寺蒔絵は、琳派漆芸にも大きく影響を与えたと思います。
中世までの蒔絵の傾向である伝統や技法のこだわりから脱却し、自由な手法や発想で蒔絵が制作される、発端になったのではないでしょうか。またその頃から、蒔絵制作の環境が変わってきたことも上げられます。その要因としては、商人達の台頭が大きく、その豪商と云われる人達が、文化の素養を持ち、蒔絵を誂えるようになってきた事です。それまでは、蒔絵師たちは誂える側が絶対的で、相手の意向に沿いデザイン制作にあたる事が主で、自らの発想でデザインを提案し制作される事は少なかったのではないでしょうか。
商人達は、自らのこだわりを込めた物を誂え、それを茶事で披露したり、道具として持つ事をステータスとされたと云われます。その為にもつくり手とのコミュニケーションを盛んにとり、自らの思い等を伝える事を大切にしました。またつくり手達も、オリジナル性を出す為、新たな発想やデザインの提案がされる事で、桃山期の文化が反映された工芸が生まれたのではないでしょうか。
このような環境の変化から、光悦蒔絵の様に自由で個性豊かで斬新な蒔絵が、生み出される素地が出来たのだと思います。また同時に、数寄者と呼ばれる文化人や茶人も加わり、古典を意匠とした蒔絵の名品も、多く生まれました。またその流れが、印籠蒔絵にも繋がったと思います。
光悦蒔絵の特色と云うと、鉛や厚貝また銀の板金などを大胆に組入れられた技法を良く言われます。けれども、それは単に技法の事であり、光悦蒔絵たる主なる特色は、主題を表現する為の表現
技法こそが光悦蒔絵の特色だと思います。
従来蒔絵では、金貝などは脇役で主役ではなかった。光悦は、それを主役に抜擢したのではないでしょうか。特に「舟橋蒔絵硯箱」では、鉛の厚手の金貝で表現された橋が主役とされています。金で覆われた船や川、繊細に描かれた波などは、きれいに描く事で存在感を逆に弱め、大胆に張込まれた橋を、かえって引き立たせています。それにより、読み込まれた歌心までがうまく表現された所こそが、名品たる所以ではないでしょうか。
先にも述べたように、高台寺蒔絵が生まれる前までは、蒔絵は工芸技術を極めようとするなかで、金をふんだん使い繊細な表現手法に、向いていましたが、城などの建築装飾として蒔絵が施され、築城という意味合いから、手早く仕上げると云う条件などもあり、技法も工夫され、思い切った蒔きっぱなしの手法や、梨地仕上げの多用で、全体が貧弱になりそうなのを、カバーする為に大胆かつ斬新な表現が採られる。これが高台寺蒔絵様式が生み出されたもとでしょう。
高台寺蒔絵の研究の為に蒔絵師として同行して、実際に高台寺霊屋の蒔絵に対面 して見ると、その当時の職人たちの“仕事の跡”が、色々な事を見せてくれました。(この件に関しては、後で書きたいと思っています)
予断になってしまいましたが、この様に高台寺蒔絵が広まる事で、工芸技法にこだわる従来の蒔絵から、意匠の表現にこだわる事に重きをおくようになり、より思いきった大胆な表現が、堰を切ったように生み出されてくる、それが光悦蒔絵であり、
琳派の工芸に、影響が少なからず与えたと思います。
光悦は、特に意匠と云う事にこだわり、別の言い方をすると蒔絵に固執するのではなく、表現にこだわったのです。漆や金貝細工師が身近にいて、なじみがあったから、
蒔絵による作品表現になったのではないでしょうか。だからあれほどまでに、大胆で斬新な蒔絵表現が出来たのでしょう。その様な背景は、図らずも光悦にとっては、工芸家と言うよりも、工芸プロデューサーとしての力量が発揮出来る、土壌となったのでしょう。
光悦のかかわった名品の数々に共通する所の豪快さは、時勢の権力者のいずれにも諂わぬ気概と、刀剣の目利きで養われた鋭い洞察力から得た自信から、来るものではないでしょうか。
光悦像に関しては、研究家の皆様が色々推測されていますので、私は、その制作 された作品そのものから感じるだけのことを、書いています。
光悦は、自らのこだわりをしっかり工人に伝える事では、工芸プロデューサーとして、工人には厳しかったのではないでしょうか。光悦自身が深くかかわった蒔絵(光悦自身が自ら制作した漆芸は少ないと思う)は、仕事に同様な特色が生じています。監修だけの物は、制作ごとに少しずつ工人のくせが出ています。五十嵐派の蒔絵師が、かかわっていたと云われていますが。五十嵐派の作風がここまで変わるものかと思うほど、蒔絵に光悦様式が入り込んでいます。工芸の作風は、良くも悪くもスポンサーや加護者により影響を受けてしまう事は、現代でも同じ事。
工芸家を支援した事で有名な、前田家の食知を父の代から受けていながらも、自らの独自の様式を確立していった、根っからの作家で、また工芸プロデューサーの技量も認められていたのでしょう。
(実際に、ある流派は加護者により、精彩を欠いてしまったと見られる例もあります)
ここまで書いたように、光悦が成した事は、漆芸を中世までの蒔絵の傾向である伝統や技法のこだわりから脱却させ、自由な手法や発想で蒔絵が制作される土壌を作った事でしょう。
そのことは、以後、江戸期の政治の安定から生まれた、文化成熟と多様化とあいまった、自由な意匠や漆芸技法を駆使した印籠蒔絵に繋がっていくのです。
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現代でも、名品が生まれる土壌は、決してなくなってはいないと信じます。
環境が整えば、可能でしょうが、その環境が整う事とは、どんな事なのか、
皆さんで考えてみたいものです。
蒔絵職人 三谷 昭
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